最初に書いておきたい。
私は黒川あかねが大好きだ。
『推しの子』という作品にも、最初から否定的だったわけではない。むしろ逆だ。アニメ第1期を見ていた頃は、本当に面白い作品が出てきたと思っていた。
特に忘れられないのが第7話。
黒川あかねが星野アイを研究し、その人物像を自分の中で組み立て、最後にまるでアイそのものになったかのように振る舞う。
あの瞬間は凄かった。
目つきが変わる。声が変わる。空気そのものが変わる。
「あかねがアイを演じている」のに、一瞬、本当にアイが帰ってきたように感じる。
あかね役の石見舞菜香さんの名前まで当時トレンド入りし、横槍メンゴさんもその演技に強く反応していたという。
私はあれでほとんど「勝った」と思った。
この作品は面白い。
黒川あかねというキャラクターも凄い。
そして石見舞菜香という声優も凄い。
実際、後年の石見舞菜香さんのキャラクター人気投票でも黒川あかねは上位に入り、あの「一瞬でアイへ切り替わる演技」を評価する声が紹介されている。
だから私は、最後まで『推しの子』を嫌いだった人間ではない。
むしろ好きだったから腹が立っている。
面白い材料は、驚くほどたくさんあった
『推しの子』には、長編を作るための魅力的な材料が山ほどあった。
ゴローと天童寺さりなの前世。
死んだ二人が、なぜか星野アイの双子として転生するという奇跡。
愛というものを知らなかったアイ。
母親から事実上置き去りにされたさりな。
そのさりなに寄り添ったゴロー。
高千穂という土地。
長年発見されなかったゴローの遺体。
転生の事情を知っているかのようなツクヨミ。
アイを死に追いやった神木ヒカル。
そして芸能界で再び生きるアクアとルビー。
一つ一つを見ると、とてつもなく強い。
だから私は当然、最後にはこれらが一本につながるものだと思っていた。
なぜゴローとさりなだったのか。
なぜアイの子供だったのか。
なぜ双子だったのか。
なぜ高千穂だったのか。
なぜ二人にはもう一度人生が与えられたのか。
そこには何か意味があるのだろう、と。
ところが読み終えてみると、私はその答えを受け取った感覚がない。
前世バレは、もっと大きな出来事だったはずだ
特に私が引っかかったのが、アクアとルビーの前世が互いに判明する展開だった。
さりなは生前からゴローに強烈な思いを抱いていた。
死んで転生してなお、その人を忘れていない。
ゴローの行方を追い、その死を知ったときには深く傷つく。
そんな少女が、
「ずっと探していた先生は、実は今まで一緒に暮らしていた双子の兄だった」
と知る。
こんな事実を知って、それまでの人間関係に簡単に戻れるだろうか。
私は恋愛ルートにしろと言いたいわけではない。
くっついてもいい。くっつかなくてもいい。
兄妹として新しい答えを出してもいい。
大切なのは、これほど巨大な事実を知った二人が、その後どのような関係を作り直していくのかを見たかったということだ。
ところが私には、前世バレそのものの衝撃に比べて、その後の感情の処理があまりにも軽く感じられた。
少しベタベタする。
少し兄妹関係が変わる。
そして物語は次へ進んでいく。
いや、待ってくれ。
さりなの人生を貫いてきた感情は、そんなものだったのか。
人間は、最愛の人が死んでも生きていく。それは分かる
ここには反論もできる。
人間は、大切な人を失っても生きていく。
最愛の人が死んだからといって、その人の人生まで終わるわけではない。
ルビーがアクアの死後も生き続ける。
それ自体はむしろ現実的なのかもしれない。
私はそこを否定したいわけではない。
問題は、この作品がそれまで積み上げてきた感情の大きさとの釣り合いだ。
さりなのゴローへの思いは、一つの人生で終わらなかった。
死を越えた。
転生を越えた。
そして奇跡のようにもう一度出会った。
そこまで非現実的なほど巨大な愛情を描いておきながら、最後の処理だけ急に、
「大切な人が死んでも、人間は悲しみを抱えて前へ進むものです」
という現実的な着地を持ち込む。
私はそこに強い違和感がある。
リアリティを入れることが悪いのではない。
なぜ、そこだけ急にリアルなのか。
前世から追い続けた感情なら、その喪失にも相応の物語が必要だったのではないか。
そして、アイとは何だったのだろう
考えれば考えるほど分からなくなるのが、星野アイの存在だ。
アイは作品冒頭の中心人物だった。
愛を知らない。
嘘をつく。
その嘘がいつか本当の愛になることを願う。
そして双子を産み、自分の子供たちへ最後に「愛してる」と伝える。
ものすごく強いキャラクターだった。
ところが物語全体を最後から振り返ると、別の疑問が生じる。
なぜゴローとさりなは、よりによってアイの子供として生まれたのか。
さりなは前世で母親から十分な愛を得られなかった。
ゴローはそんなさりなに寄り添った。
そして二人が転生した先の母親は「愛を知らないアイ」だった。
ここまで揃ったら、
母と子、愛すること、愛されること、見捨てられること。
この三人によって、とんでもなく大きなテーマが完成するように思える。
でも私には、それが最後まで一本につながったようには見えなかった。
だから極端な言い方をすれば、後から見たアイが「アクアとルビーという双子を産むために配置された母親」にすら見えてしまう。
私はそんなアイを見たかったわけではない。
私が一番つらいのは、キャラクターに血が通っていないように見えることだ
結局、私が『推しの子』終盤で最もつらかったのはここだと思う。
キャラクターが物語を生きているのではなく、
作者が用意したイベントを成立させるために、キャラクターが配置されているように見えてしまう。
設定は強い。
その回その回の引きも強い。
「次はどうなるんだ」と思わせる力も非常に強い。
前世バレもそうだった。
あかねが危険にさらされる展開もそうだった。
ツクヨミの登場もそうだった。
そしてアクアの最期もそうだった。
その瞬間だけを見れば強烈だ。
しかし、そのイベントによってキャラクターの人生がどう変わったのか。
以前に置いた設定とどうつながったのか。
最後まで振り返ったとき、なぜそれが必要だったのか。
そこを考えると、私には空白が多すぎる。
作家には、自分が生み出したキャラクターへの責任があると思っている
これは「キャラクターを全員幸せにしろ」という話ではない。
私は悲劇そのものを否定していない。
主人公が死ぬ作品だって好きなものはいくらでもある。
キャラクターを徹底的に苦しめる物語だっていい。
でも、一度その人物を生み出し、何年も人生を与え、読者にその人物を愛させたのなら、
作者にはその人物の人生を最後まで見届ける責任がある
と私は思っている。
予定していたプロットがあるから死なせる。
昔言わせた台詞があるから回収する。
この人物はここで役割を終えたから退場させる。
そういう論理だけでは、人間を描いたことにはならない。
長期連載では、作者が当初想定していなかったほどキャラクターが成長することだってある。
ならば最初の予定より、そのキャラクターが実際に歩いてきた人生の方を大切にしてほしい。
私が物語に求めているのは、そこなのだと思う。
それでも私は、黒川あかねが大好きだ
ここまで批判しておいて何だが、『推しの子』から全部を否定する気にはなれない。
黒川あかねというキャラクターに出会えたからだ。
あかねが自分を追い詰めるところ。
そこから立ち上がるところ。
異常なほど人物を研究するところ。
女優として有馬かなと競い合うところ。
そしてアクアという難しい人間を理解しようとするところ。
私はずっとあかねが好きだった。
そして、アニメ第1期第7話。
あの一瞬でアイになったあかねを見た時の感覚は、今でも消えていない。
石見舞菜香さんの演技まで含めて、あの回は本当に凄かった。実際に当時、石見さんの名前がトレンド入りするほど反響を呼んでいる。
だからこそ悔しい。
こんなに面白いキャラクターを作れた作品だったのに。
こんなに面白い材料を持っていた作品だったのに。
私は『推しの子』を嫌いだったから怒っているのではない。
途中まで、本当に面白いと思っていた。
続きを期待した。
この世界には最後に何か大きな答えがあると信じた。
だから最後まで読んだ。
そして最後に感じたのは、
「このキャラクターたちを、もう少し大切にしてほしかった」
ということだった。
それが、完結から時間が経った今でも残っている、私の『推しの子』への一番大きな不満である。
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